2007年度1学期水曜4時限「認識するとはどういうことか?」

                第8回講義(2007年6月13日)                

     

§6知識の外在主義、つづき

 

 

(3)逸脱因果の問題を解決する:ドレツキによる反事実的分析

1971年にフレッド・ドレツキが提案した解決は、伝統的定義に次のCを付け加えるものだった。

SPを知っているとは、次のときそのときに限る。

@Pが、真である。

      ASは、Pを信じている。

      BSは、Pを信じることにおいて、正当化されている。

      CSPということを信じるためにもっている理由Rが、次の条件を満たす。
       すなわち、もし現実の事態が
Pでなかったなら、SRをもたなかっただろう。

(戸田山、前掲書、p.64 からの書き換え)

 

Fred Dretske,’Conclusive Reasons’, Australasian Journal of Philosophy, 49. 1971.

Fred Dretske, Knowledge and the Flow of Information, Basil Blackwell, 1981.

 

これによって、ゲティアの反例は、知識から除外される。また、知識の因果説の欠点3の逸脱因果のケースを知識から除外することができる。

 

<再検討>

■先週、知識の因果説への批判として次のようにのべました。

知識の因果説の欠点5:感覚や知覚を因果説で説明できても、それについての命題知を因果説で説明することは出来ない。

この批判は、ドレツキの議論にも妥当するでしょう。
しかし、もし心身問題に関して一元論の立場をとるならば、<Pという事実から、ある知覚が因果的に生じて、その知覚からさらに「p」という命題知が因果的に生じる>と理解することも可能になります。

その場合には、知識の因果説によって、知識を基礎付けることが出来ることになります(認識の外在的基礎付け主義)。

 

■認識の外在的基礎付け主義のためには、次の二つの証明が必要である。

(1)Pという事実からある知覚が因果的に生じていることの証明

  ある脳状態がある知覚と同一であること(同一説)、あるいはある脳状態はある知覚が随伴すること(supervene)(随伴現象説)を証明しなければならない。(心身の二元論はとらず、一元論を採用するとする。)

(2)ある知覚からそれに関する命題知が因果的に生じることの証明

 

もし、(2)は証明できず、(1)だけが証明できるのだとすると、そのときには、世界との因果関係によって基礎付けられるのは、感覚や知覚だけであることになる。そうするとそこから他の命題知を基礎付けることは出来ないので、ある種の整合主義(外在的整合主義?)になるだろう。

 

           §7 基礎付け主義と整合主義

 

■内在的基礎付主義と内在的整合主義

 内在主義の立場をとるとき、話を信念にかぎっても、あるいは非信念的認知状態に拡張しても、知を基礎付けるということは不可能でした。そこで登場するのが、基礎付け主義(Foundationalism)を放棄して、整合主義(Coherentism)をとることです。

■内在的整合主義とは、信念が正当化されていることを、他の信念によって究極的に基礎付けられることに求めず、

  ・他の信念(や認知状態)と矛盾しないこと(両立すること)

  ・他の信念(や認知状態)と部分的な論理的な導出関係にあること

など、ゆるい関係を考える立場です。

 内在主義的基礎付け主義

 内在主義的整合主義

 外在主義的基礎付け主意

 外在主義的整合主義(?)

 

■<内在主義と外在主義の論争>と<観念論(Idealism)と実在論(Realism)の論争>の類似性

後者は存在論の概念であるが、しかしその論争は認識の説明に関する論争でもあった。

 

錯覚論法による<感覚所与(sense data)論>の登場、三項図式の登場。